おいけん回想録

■おいけん回想録

以下、生沼監督が回想されながら記述されたものを原文のまま記載したものになります。ご興味のあるかたは読み進んでみてください。
※かなりの長文です

思いつくままに、書いてみます。

私の回想録です。



高校2年生の時に、「小学校の先生になろう!」と思いました。

その頃から子どもが好きだったんですねえ。

どうせなるなら、良い先生になりたい。

子ども関係の本を読みあさりました。

その時に出会ったのが、高島巌さんの

「子どもは本来すばらしいのだ」

という本です。

その後の私の生き方に強い影響を与えてくれました。

興味のある方は、ぜひ。

知識だけではなく、実際の子どもを知りたい、と思いました。

新宿の真ん中に住んでいましたが、

その頃は、ドラえもんに出てくるような空き地があり、

子ども達の格好の遊び場になっていました。

そこに、毎日のように通いました。

当時は、サッカーブームと言われ、

新聞やテレビでは、各地に少年サッカー教室が開かれた、

というニュースが、連日のように流れていました。

近頃の小学生は、みんなサッカーをするんだ、

と早とちりした私は、

サッカーボールを持ってその空き地に行き、

壁に向かってボールを蹴っていました。

実際には、子ども達に一番人気のあるスポーツは、野球で、

サッカーは、本当にマイナーだったんですけどね。

その時のニュースが、

バレーボールだったら、

バレーボールを持って行っていたでしょうし、

バスケットだったら、

バスケットボールを持って行っていたでしょう。

野球だったら、

グローブとバットを持って行っていたでしょう。

とにかく、子どもと知り合いになりたくて、必死でした。

当時内気だった私は、子どもがそこにいるのに、

話しかけられませんでした。

初めて話しかけられたときは、嬉しかったですねえ。

それから、徐々に子ども達が周りに集まって来るようになり、

ついには、チームを作ろう、ということになりました。

なまえをどうするか、いろいろ考えました。

「ムスタング」というスポーツカーがあります。

戦闘機もあります。

どちらも高性能で、スタイルが良かった。

かっこよかった。

意味を調べると、

カナダからメキシコにかけて住む野生馬で、

気性がとても荒い馬で、乗りこなすのが大変な馬だ、

と書いてありました。

子ども達には、ワイルドになってほしい、

という願いがあったので、

このなまえを提案しました。

あっさり通りました。

それからの6年あまりは、楽しかったですねえ。

子ども達を連れて、いろいろなところに行きました。

子ども達も、私の家に泊まりに来たりしました。

ある子が、新宿の旅行代理店から、合宿のチラシを持って来ました。

さすがに、合宿は、どうかな、と思いました。

20人位の子どもを、当時大学生だった私1人で連れて行くのです。

無茶ですよね。

当時のお母さん方、よく私のような若輩者1人に任せたなあ、

と思います。

でも、よくしたもので、一期生(高校生)が、付き添いで来てくれました。

3人位ですかね。

行った場所は、群馬県の武尊です。

ズンズン山を登っていくと、その先に、

「オリンピアスキー場」

というスキー場がありました。

その大きな駐車場が、夏にはグラウンドになり、

合宿するチームを迎え入れていたのです。

サッカーだけでなく、ラグビー、野球、テニス、卓球、

いろいろなスポーツの団体が来ていました。

楽しかった6年あまりが過ぎ、

とうとう教師になるときが来ました。

子ども達ともお別れです。

寂しかったですねえ。

子ども達も、「土日だけでも、練習見てよ。」

と、口々に言ってくれました。

でも、出来るわけがありません。

最後に、清水に遠征に行きました。

最後の晩は、本当に辛かったです。



楽しかったあのような生活も終わりかあ。

サッカーも、合宿も、子どもが泊まりに来ることもないよなあ、

と思っていたところへ、校長先生から、

「サッカーの指導をしてもらえませんか?」

と言われました。

私にとっては、まさに「渡りに船」「青天の霹靂」です。

「え?やってもいいんですか?」

で、私がサッカーの指導をすることになりました。

チーム名をどうするか、子ども達に聞きました。

「ムスタングがいい!」

と、子ども達が口々に言いました。

学生時代に、新宿で、

「ムスタング」というなまえのチームで活動していたことは、

話しては、いました。

新宿の子ども達が、諏訪に遊びにも来ました。

でも、私は、違うなまえが良いと考えていました。

「違うなまえが良いんじゃない?」

とかなりしつこく言ったのですが、

子ども達の気持ちは変わりませんでした。

それで、「ムスタング」になりました。

私が南諏訪小学校(現在の諏訪小学校)に赴任する半年前、

多摩市の少年サッカー大会が始まりました。

第1回大会の優勝チームは、南諏訪小学校です。

その話を聞いて、「優勝するなんて、すごいなあ!」と思いました。

定期的に練習するのかな、と思いきや、

なんと、練習は、「大会の2週間前ぐらいから」です。

戦術なんて、ありません。

技術も、新宿の子ども達と比べて、かなり低かったです。

「こんなんで優勝できるわけないな。」と思いました。

ところが、あれよあれよと勝ち進み、見事優勝しました。

正直言って、驚きました。

大会前に2週間ほど練習すれば、難なく優勝できた。

古き良き昔の、思い出です。

時代は、まさに、「平成狸合戦ぽんぽこ」の時代です。

当時、外国のサッカーを知る手立ては、

「三菱ダイアモンドサッカー」

しかありませんでした。

その中でも、1970年のブラジルは、凄かった。

サッカーを、「ボール蹴り」と認識していた私の頭を、

根底から覆しました。

こんなにワクワクするものなんだ!と思いました。

ムスタングの子ども達の技術を、もっと高めたい、戦術練習もしたい、

そう思いました。

練習を、一年中毎日にしました。

月、水、金は、3,4年生、

火、木、土は、5,6年生、

日曜祝日は、試合、

というスケジュールです。

私の休みは、ありません。

でも楽しかったですねえ!

1年後に、伊藤先生が、

2年後に、青山先生が、

また、保護者の桜庭さんも指導をしてくれることになりました。

当時は、土曜日は、午前中だけ授業がありました。

土曜日の午後は、全学年の練習になりました。

当時は、ユニフォームで練習することになっていましたので、

昼食を終えて、グラウンドに行くと、グラウンド一面真っ赤!

100人位の子ども達が、ボールを蹴っていました。

町田がレベルが高かったので、

しょっちゅう町田に試合に行きました。

急に思いついて、

「明日、町田に試合に行きたいんですけど。」

なんてこともありました。

当時のお母さんは、嫌な顔一つせず、

「良いですよ。」

と言って、車の手配をしてくれました。

「悪いなあ。」と思っていました。

ムスタングの保護者会の会長さんが、

ムスタングの会計から、中古のバンを買ってくれました。

嬉しくて、伊藤先生と、きれいに「MUSTANG F.C.」と書きました。

ムスタングバスの1号車です。

でも、せいぜい乗れても、10人あまり。

まだまだ足りません。

当時島原商業の小嶺先生が、バスを買って、遠征に行っている、

と聞きました。

「なんだ、バスを買えば良いのか。」と思いました。

親不孝なことに、私を育ててくれた祖父母が、

爪に火をともすようにして貯めたお金を使って、

29人乗りの小型バスを買いました。

マイクロバスと大型バスの中間の大きさです。

今は、ほとんど走っていません。

ところが、トランクがないので、

遠征や合宿など荷物が多くなると、

実質15人位しか乗れません。

そこで、工面して、42人乗りの大型バスを買いました。

小さいけれど、トランクもあります。

リアエンジンなので、静かです。

ムスタングバスの3号車です。

このバスで、町田、府中、八王子、

近隣のチームに、出かけていきました。

どことやっても、ほとんど勝ちました。

そこで、より強い相手を求めて、

清水、静岡、藤枝、浜松、甲府、大阪、津山、青森、

いろいろなところに行きました。

この頃、FC町田が全国優勝をするなど、

華々しい活躍をしていました。

17多摩の森先生から電話がかかってきました。

「FC多摩を作ろう。」

その頃の多摩は、チーム間の格差がとても大きかったので、

「まだ早いと思います。」

と言いましたが、

「東寺方におもしろい子(高畠哲也※現TCU代表)がいる。

その子とムスタングでチームを作って、中央大会に行こう。」

森先生の熱意で、作ることになりました。

1期生、4期生、7期生、10期生、と、足かけ10年あまり

FC多摩の監督をしました。

この5年ほど前から、全国大会の役員をしていました。

この時の方々とは、今でも年に2度、お会いしていますが、

本当に熱い人たちです。

子どものためになることなら、どんなに大変なことでも、

何とかしてやってしまう。

私より年上ばかりですが、やる気のかたまり。

そこで役員をやっていて、

「何としても、この大会(全国大会)に、ムスタングの子ども達を出させたい!」

「ムスタングの子ども達に、この極めて良質の空間を体験させたい!」

と強く強く思いました。

私の指導が、一段と熱を帯びた頃です。

この頃ですね、東京都で3位になったのは。

2回なりました。

多摩市で優勝は、当たり前。

東京都の中央大会に行くのも、当たり前。

東京都で何位になれるか。

それも、ベスト4以上。

ムスタングの黄金時代でした。



私が、多摩市から出なければならない時がやって来ました。

規則ですので、仕方がありません。

町田に行きました。

すると、全国優勝もしたことのある佐藤先生から

「FC町田を見てくれないか?」

と誘われました。

とてもうまい子が揃っている学年で、

私に見させたい、と、町田のみんなが言っている、と言うのです。

東京代表になるのは、当たり前、

全国大会で、優勝する!

というコンセプトのチームです。

ハリルに代わっていきなり代表チームの監督をしろ、

と言われているようなものです。

少し悩みましたが、引き受けることにしました。

最初の練習の時に、島崎さんという代表の方が、

子ども達に言ったことが忘れられません。

「7月に藤枝遠征がある。

お家の人が、田舎に帰るから、遠征には行けない、と言うかもしれない。

そうしたら、僕1人で残るから、遠征に行かせて下さい、と言うんだぞ。

それ位の気持ちがなかったら、FC町田ではやっていけないぞ。」

ムスタングも、当時、かなり厳しい事を言っていましたが、

5年生の子どもに、家に1人で残れ、までは言っていませんでした。

強いチームは、違うんだなあ、と思いました。

この子達が、6年生の東京都の選抜大会で、優勝しました。

生まれて初めて、胴上げされました。

テレビで放映もされました。

中学では、全国大会に行き、ベスト8になりました。

この子達の中から、Jリーガーが何人も出ました。

子どもが多すぎて中諏訪小学校が出来、

また、少なくなって、

中諏訪小学校と南諏訪小学校が併合して、

諏訪小学校が出来ました。

子どもの人数の減少に伴い、

ムスタングの人数も、少なくなりました。

「5人しかいない。」という話を聞きました。

多摩−町田−昭島−国立と回って、

再び多摩に戻ってきました。

私が、FC町田を見るようになったとき、

「俺は、小学生は、あわないんだけどな。」

と言いながらも、ムスタングの火を消さないで、

しっかりとチームの運営をしてくれていた次郎くんからバトンを受け取り、

再びムスタングの子ども達とサッカーが出来るようになりました。

もう亡くなられましたが、水野晴夫という映画解説者がいました。

「いやぁ、映画って本当にいいもんですね〜」

というセリフで有名でした。

私は、50年近く子どもと向き合ってきて、強く思います。

「いやぁ、子どもって本当にいいもんですね〜」



以上